つむじ風少年

 

 

98.49.88

目が釘付けになる・・・

放課後の応接室。遠くで下校する生徒達の声が聞こえる。

真っ赤なボディコンシャスで包まれた、見事なスリーサイズが、くねくねと科を作って迫って来た。

「有り難う御座います。おかげで、娘も助かりましたわ♪」

吸い込まれそうな胸の谷間から、やっとの思いで視線を外すと、まとわりつく相手の両肩に手をついて、自分の体から引き剥がす。

「いえ、教師として当たり前の事をしただけです。お礼を受けるほどの事ではありません」

言いながら、目はやっぱり胸の方へ…いや、言い訳を許すなら、顔から視線を外すと、どうしても胸に行かざるを得ないのだ。

存在感のあるヒップ、絞ったようにくびれた腰、誇らしげに突き出た胸。

の、上に乗っている顔は…昔は美人だったらしい…

皺の間を埋め尽くした、厚さ2?はあるかもしれないファゥンデーションのコーティングと、ペンキもかくやと言わんばかりのチークとシャドウ、アイラインもくっきりと、マスカラは、まつげをクジラの鬚に作り替えている。トドメは人でも食べて来たかと、聞きたくなるような、真っ赤な唇。

鵺野鳴介25歳。

妖怪と深く関わって生きている彼だったが、人間の妖怪もどきは管轄外だった。

「ねーねー、あれが3丁目の美男と野獣の野獣?」

「野獣っつーよか、妖怪だよな」

「ぬ〜べ〜怖がってるわよ」

好き勝手な事を言いながら、広、郷子、美樹。の3人組は、ピンチに立って成す術の無い担任教師の姿を、野次馬根性で覗いていた。

「それにしても、土支田先輩のおばぁちゃんって、迫力あるわねー」

「うん、孫の為にって、整形手術したのよ。身体だけ。先輩は嫌がって逃げ回ってるけど」

美男の孫に、かくの如き祖母。人呼んで美男と野獣。という事か?

「で、なんでぬ〜べ〜が迫られてんだ?」

「広知らないの?」

美樹は事情通である。

「先輩がこっくりさんしてて、妙な霊をくっつけて家に帰っちゃったんだって。そうしたらお母さんが取り付かれて、変になって入院したらしいのよ」

「それをぬ〜べ〜が祓ってやったのか?」

「うん」

「入院しているお母さんの代わりに、おばぁちゃんが来たってわけ?美樹」

「そうみたい。でもね、ほんとは…」

応接室の中から鵺野の悲鳴が聞こえた。

あわてて3人が扉に飛びつくと、壁際に追いつめられた鵺野が、何とか妖怪もどきを引き剥がそうと、苦戦している。

後ろ姿は完璧なナイスバディ。

前もそうなら、幸せだろうに、むしろ気の毒な光景である。

美樹は冷静に言葉を続けた。

「若い男にへばりつくのが趣味らしいわ」

「ぬ〜べ〜…」

「可哀相に…」

助ける勇気も無く、広と郷子が同情のタメイキをもらした時、誰かが、後ろから覗き込んできた。

「どうしたの?3人で」

慌てて振り向いた子供達の後ろには、出来れば今ここで会いたくない人物が立っていた。

新雪のような白い肌。タートルネックのセーターとデニムのパンツが包むのは、ナイスバディなのは勿論のこと、作り物など遠く及ばないすらりと若々しい肢体。

の、上に乗っている顔は、目を見張るような超美少女。

しかしこっちは、正真正銘の妖怪。

今では名実共に、鵺野の恋人。雪女のゆきめである。

すべてを捧げ、一途に鵺野を愛する彼女だが、ヤキモチの焼き方も半端ではない。嫉妬の炎をブリザードに替えて、辺りすべてを氷つかせるのだ。

…もし、ゆきめが応接室の惨状を見たら…間違いなく誤解する。

「あ…あはははははははははは」

3人は思わず扉を背負って凍り付いた。

「?」

不思議そうに首を傾げるゆきめを前に、3人が焦った視線を交わしあっていると、何時もながら間の悪い鵺野の悲鳴が、応接室から漏れてくる。

「鵺野先生?」

「あっ!駄目!!」

「ちょっと、タンマ!」

慌てて止める広と郷子に構わずに、ゆきめは扉を開けた。

…………………………

たっぷり1分間。動きが止まった。

硬直した雪女の目が凝視するのは、絡まるように床に倒れた男女の姿。

真っ赤なボディコンの肩に、しっかりと乗せられた、鵺野の両手。

そして、作り物のように美しい曲線美。

「ああ、遂に現場を押さえられてしまったのね」

「美樹!!」

「あ…あの…ゆきめさん。誤解しないよーにね」

「もしもーし?」

ふるふると震え出す細い肩に、子供達が恐る恐る声を掛ける。

しかし、そんな外野の声なんて聞こえるはずが無い。

「先生の…浮気者―!!」

「うわー!!ゆきめくん!!落ち着け!!」

鵺野の悲鳴を氷の中に閉じ込めて、ゆきめは泣きながら部屋を飛び出していった。

コンコン…

「あーあー」

完全に凍結した鵺野と妖怪もどきを叩きながら、広がため息を吐く。

「広、ぬ〜べ〜を頼むわよ」

「なんだよそれ?」

「美樹がゆきめさんを追っかけてったのよ。なに言うかわかんないから私が行くわ」

言い捨てて、郷子が走り出す。

「ちぇっ」

口を尖らせながら、広はお湯を取りに立ち上がった。

頭の中は、真っ赤なボディコンの美人の肩を、優しく抱き留める鵺野の姿。あのまま自分が飛び込まなければ、どんな事になっていただろうか?

恋人の思わぬ裏切りに、ゆきめの心は千切に乱れていた。

「ひどい、私というものがありながら…鵺野先生の…馬鹿ぁ!!」

飛び込んだ公園の中、悲鳴の様なゆきめの声が響き、中央の噴水が瞬時に氷柱になる。

力無くベンチに腰を落とした彼女の足元で、冷たいつむじ風が吹き抜けていく。

春はまだ遠い。

「あー居た居た!」

「ゆきめさーーん」

追いかけて来た郷子と美樹が駆け寄ってくる。

「美樹、変な事言うんじゃないわよ」

「判ってるわよ」

口々に説明する言葉を、はじめは聞き流していたが、落ち着いてくるうちに、自分の早とちりに気が付いたらしい。

「私…どうしましょう…」

困惑するゆきめに、美樹が肩を竦めてみせる。

「ま。ぬ〜べ〜の日頃が悪いのよね。律子先生にでれでれするわ、ナイスバディには目尻下げるわ。ゆきめさんが疑うのは仕方ないわよ」

「美樹!!」

郷子がたしなめた時、強いつむじ風が、3人の回りで渦を巻いて吹き抜けた。

「きゃっ!!」

「うーー眼にゴミがぁ」

「?その子誰?」

郷子の声に、全員がゆきめの横を見る。

にこにこと笑顔を振り撒いて、9歳ほどの少年がちょこんとベンチの端っこに座っていた。

黒い髪に、ゲジゲシ眉毛。この寒空にTシャツと半ズボンという、どこかで見た事があるような少年である。

「こんにちは♪」

少年は、実に快活な挨拶を寄越した。

「こ…んにちは」

「ボク…どこの子?」

美樹の質問に、少年はにこにこと笑い返すだけである。

なんとなくにこにこに引き込まれながら、3人は困惑した視線を交わす。

「お姉ちゃん達、童守小学校の生徒でしょう?」

「どうして判るの?」

「なんとなく」

奇妙な少年だ。

「僕、なんて名前?」

この子供を見ていると、ある少年が浮かんでくる。ゆきめは名を訊ねてみた。

「ボク?…陽神雪介」

果たして少年は、3人が気になっている少年の苗字を口にした。

「ひ、陽神!?ボク、陽神明って子知ってる?」

郷子が勢い込んで身を乗り出す。

「うん。従兄弟のお兄ちゃんだよ」

「従兄弟ぉ!!」

奇麗なユニゾンが響き渡る。

郷子は3度、美樹は2度、ゆきめには1度だけ姿を見せて、風のように消え、その実在さえ判らない、謎の少年、陽神明の身内が目の前に居る。

「陽神君って何者?」

「何処に住んでるの?」

「ホントに童守小の生徒なの?」

「南雲京太くん知ってる?」

口々に迫られて、少年は少したじろいでいる。

「今から会うの?」

聞かれて、雪介は少し項垂れた。

「と…いや、明兄ちゃんは今いないんだ」

「え?」

「居ない?」

従兄弟の明は、その行動力に比べて、えらく体が弱いらしい。いまも、何処かの病院に入院しているという。

その病院は、童守病院ではない、という事しかわからない。

「ちぇっ、童守病院なら、玉藻先生から聞き出せたのに」

「美樹…」

同感の郷子が、苦笑する。

雪介は困ったように頷いた。

「僕も明兄ちゃんの家に来たんだけど、おじさんもおばさんも泊まりがけで病院に行ってて、誰も居ないんだよ…家にも帰れないし…」

その言葉に、ゆきめが首を傾げる。

「お家はどうかしたの?」

少年が再びにっこりする。

「聞いてくれる?」

「うん」

「ええ」

「いいわよ」

3人は笑い返した。

途端に少年の眉が曇る。

「ボクん家、今、かてーのききなんだ」

「え?」

意外な言葉に目を見張る女達の前で、雪介がぽつりぽつりと身の上を話し始める。

少年は、友達と共に、遠い街からやって来たらしい。

何故ならば、少年の父親の浮気がばれて、怒った母親が家出してしまい、父親が連れ戻しに追いかけていったから、というのだ。

両親が戻るまで、雪介は親類を頼るように言われ、童守町に来たという。

「とーさん奇麗なお姉ぇさんに弱くってさ、かーさんすっごく怒ってるんだ。それに、ここに来たら、明兄ちゃん家誰も居ないし。友達にもはぐれちゃって。ボクどうしたら良いんだろう?」

涙まで浮かべてそう締めくくる。

3人はすっかり同情していた。

「雪介君、可哀相に…」

「せめて、はぐれたお友達を、お姉さん達が探してあげるわ」

郷子の言葉に、雪介の顔がぱっと明るくなる。

「ホント!?」

「うん、まかしといて」

美樹が安請け合いに頷く。

「それにしても、浮気だなんて、どっかで聞いたような話だわ」

「美樹、ぬ〜べ〜のは誤解なんだからね!」

「あぁら?あれが若かったら、わかんないわよぉ」

公園はすっかり薄暗くなり、短い冬の一日は暮れ始めていた。

4人の髪をかき乱して、木枯らしが吹き抜けていく。

「さぁ!たーんと召し上がれ♪」

テーブルいっぱいに、ならべられた料理に、少年は歓声を上げて飛びついた。

瞬くうちに次々と平らげていく様を、ゆきめは嬉し気に眺めている。

今夜の宿も無い雪介を、ゆきめは自分の部屋へ連れて帰ってきた。

気の毒な身の上の少年に同情したという事もあるが、この雪介という少年の持つ気に、不思議なものを感じたからだった。

気は、鵺野によく似た陽神明と同じだ。そして姿もまた同じなのだが、この少年には、それ以外にもう一つ、もっと懐かしい印象があった。

彼を見ていると、故郷の山の風を思い出す。

爽やかに澄み切った、雪の峰を渡る風…

「ごちそーさまでした!!」

元気いっぱいで、空になった皿の山に手を合わせる。

「美味しかった?」

「うん!おねーさんの御飯。かーさんとおんなじ」

「えっ!?」

どきんと心臓が飛び跳ねる。陽神明に感じたような動揺ではなく、むしろ、歓喜に近い。

「おねーさん、かーさんに似てるよ、家に居るみたいだ」

自然に頬が緩み、ゆきめはいそいそと少年の世話を焼いた。

風呂を用意し、はしゃぐ雪介と共に入っても、やはり子供の世話をしているという、ほのぼのとした幸せが沸き上がってくる。

元々子供は好きなのだが、雪介と居ると、それよりももっと心の奥で、こうしているのが当たり前の様な気がする。

――もし、鵺野先生と結婚して、子供が産まれたら、こんな感じかしら…?

ふと、そんな事を考えている自分に気が付いて、ゆきめは真っ赤になった。

「やんだぁ、つぐだらごと、おしょすいっぺやー!!」

思わず叫んでしまう。と、

…おねーーさん?」

困惑した雪介の声。

「え?」

振り向くと、凍結した湯船の中で、雪介が困っていた。

「きゃーー!!ごめんなさい!!」

大慌てで湯船から救出し、熱いシャワーをかける。しかし雪介は気にもしていないらしい。

「ごめんねー」

謝るゆきめに、相変わらずにこにこと笑っている。

「いいよ、馴れてるから」

「馴れてるの?」

雪女に凍らされる事にだろうか?

いぶかしむ視線に、雪介は一瞬しまった、と言うように首を竦め、急いで付け足した。

「あー、僕、北国に住んでるの。だから寒いの馴れてるんだ」

いかにも取って付けた様な言い訳だったが、ゆきめは素直に納得してしまった。

「まぁ、そうなの?私も北国生まれなのよ」

「うん、雪女だもんね」

まるで鏡に映したような笑顔で、2人は頷きあった。

闇の帳を纏って、童守小学校の校舎が、夜の休息に憩う。

宿直の教師でさえ、昼の疲れと暖房の温みによって、うとうとと船を漕ぎ出だす。

つけっぱなしのテレビの音が、誰も居ない廊下へと流れ出していく。

と、その音がほんの幽かになった、階段の踊り場の壁に、黒い染みが滲み始めた。

じわじわと染み出たそれは、大きな楕円形となって、広がるのが止まる。

そして、染みの表面がざわざわと波立つと、あたかも霜柱が立ちあがるかの如く、ぞわりと厚みを増した。

波立つ表面は、次第に形を整え、シンプルな枠組みの姿見になり、使い込んだような色合いの木目が浮かぶと、まるで、10年も前からそこに在ったように、しっくりと風景に溶け込んだ。

踊り場の窓から射し込む月明かりが、磨かれた鏡面に反射した時。光の中で、何かがにやりと笑う。

それっきり、鏡はひっそりとなりを潜めた。

後はただ、木枯らしが窓枠を鳴らすだけ。

誰も知らない。何も変わらない。

3っつほど増えたぬ〜べ〜人形に囲まれたベッドの中で、ゆきめにしがみついたまま、雪介はすやすやと眠っている。

まるで母親になった気分のゆきめは、雪介の背を撫ぜながら、この子の両親の事を考えていた。

父親の事は解からないが、少なくとも、母親は、自分と同じ雪女なのでは無いだろうか…?

こうして側に居ると、雪介の気は、半分妖怪のそれが混じっている事が判る。それも、雪女である自分とよく似た気だ。

しかし、山の神が眠りに就いた今ならば、雪女が人と共に在ることが許されているが、それ以前では、人と雪女が結婚できたなんて考えられない。

いやむしろ、ありえない。

ならば、この少年は何者なのだろう…?

ゆきめが微かに眉を寄せた時、腕の中で雪介が身じろぎした。

かーさん…」

小さな寝言が聞こえ、暖かい頬が押し付けられる。

思わず幼い体を抱きしめて、明日、鵺野に相談しようと、枕元のぬ〜べ〜人形を見つめる。

親子の様に寄り添って眠る2人を、壁に張られた、手製ぬ〜べ〜ポスターが優しく見つめていた。

「へー。この子が陽神の従兄弟か?」

5年3組のみんなが、わらわらと集まってくる。

陽神に会った事のある、まことや克也、広は、興味津々で少年を見ていた。

「雪介だっけ?陽神ってそんなに体弱いのか?」

「とてもそうは見えなかったけどな?」

「そうなのだ。全然元気だったのだ」

話題は自然と、従兄弟の陽神明に集中する。

雪介がにこにこと頷いた。

「うん!めちゃくちゃ弱いのに、空威張りして走り回るから、すぐ病院に帰らなくちゃならなくなるんだ、っておばさんが言ってた」

「へー。危ない奴」

「で、あいつ6年何組か知ってるか?」

6学年を探し回り、結局徒労に終わった広が勢い込む。

しかし、雪介はふるふると首を振った。

「ううん、知らない」

「ちぇっ、また駄目か」

「明兄ちゃんは、入院ばっかりしているから、退院してくると、クラスのみんなに忘れられているって、前にぼやいていたよ」

気の毒な話だ。

「道理で誰に聞いてもしらねーはずだぜ」

単純にひろしが納得する。

「さあさあ、陽神君の事はそれでいいじゃない」

「そうそう、雪介君の友達を探すのよ」

美樹と郷子が、仕切り始める。

「今日は土曜日なんだから、時間はたっぷり有るわ」

「いい、みんな!?放課後、手分けして探すわよ!」

力強く頷く者や、面倒そうに肩を竦める者。反応は様々、しかし、やらないという者は居ない。

そこが、ぬ〜べ〜クラスの良いところ。

「なにぃ!!陽神明の従兄弟ぉ!?」

朝っぱらから職員室に飛び込んできたゆきめは、鵺野にとって有り得ない話を持ってきた。

「ええ、陽神雪介君って言うんです」

にっこりと微笑む恋人に、引きつった笑みを返しながら、鵺野は内心首を捻っていた。

――どういう事だ?あれは俺だぞ――

謎の6年生、陽神明。

しかし彼は、本当は実在していない。

鵺野の奥義、陽神の術によって、自らの気を練って作り出した気の塊。いわば分身である。

その陽神に、従兄弟が居るはずが無いのだ。

居るはずの無い従兄弟を名乗る少年とは何者だろう?

「ともかく、その子に会ってみよう」

鵺野はいぶかしみながら腰を上げた。

「…そういう事情で、この童守町にやってきたんですって」

腕にぶら下がる様に張り付いて、不振な少年の事情を説明するゆきめに、鵺野は苦笑した。

「ゆきめ君、なんで、昨日のうちに相談してくれなかったんだい?」

白い頬が朱を刷いたように染まる。

「あの、だって、昨日の事。私早とちりして…あの…」

バツが悪くて、すぐには顔を出せなかったらしい。

モジモジとうつむくゆきめの頭を、鵺野がそっと撫ぜる。

「鵺野先生…」

はにかんだ微笑みで見上げてくる恋人に、同じ様に微笑んで、愛おしさが込み上げてくる。

ホームルームも始まる時間。廊下を人が歩いていないのを良い事に、2人の世界に浸っている。

ホームルーム、はじめる時間であるはずなのに…

ふと、ゆきめの視線が空を泳ぐ。

「鵺野先生、ひとつだけ、気になる事があるんです」

「気になる事?」

「ええ、雪介君は…」

ゆきめは、相談のそもそもの理由を口にした、しかし、遠くから響いてくる地鳴りのような音に言葉が途切れる。

「何だ?」

音の方を見ると、廊下の奥から何やら集団が走ってくる。

先頭にいるのは、雪介であった。

その後ろに並ぶのは、広と郷子。少し遅れて5年3組の面々が続く。

「何事だ?こらっおまえ達、何をやってるんだ?」

憤然と怒鳴りつける担任教師に、生徒の合唱が答える。

「先生!その子、捕まえてーーーー!!」

廊下に立ち塞がる鵺野を見止めて、雪介は不意に姿勢を低くして、走るスピードを上げた。

駆け抜けようと見せかけて、屈み込んできた鵺野の頭上を、ひょいと飛び越す。ついでに後頭部を踏みつけて、さらに跳躍距離を稼いで着地した。

そのまま駆け出そうとする。

しかし、すんでの所で廊下との接吻を免れた鵺野が、襟首を掴んで持ち上げた。

目元まで持ち上げると、めっと顔を顰めてみせる。

「こーら、悪戯ボーズ」

猫扱いでぶら下げられたまま、雪介は両手を握り締めてポーズを決めた。

2〜3度シャドウボクシングをしてみせると、前触れも無く足が繰り出される。

小さな足が、信じられない破壊力を伴って鵺野の顎に炸裂した。

「ぐえ…」

潰れたひき蛙の如きうめき声を出して、仰け反って倒れ込む恋人に、ゆきめが慌てて飛びつく。

「きゃーー!?鵺野先生!!」

拘束が緩んだ隙に、雪介は襟を掴む手を振り払って、走り出していた。

ゆきめに介抱されつつ、顎を押さえて悶絶する担任教師の横を、薄情な生徒達が駆け抜ける。

「あーあー逃がしちゃった」

「役立たず」

「行こ、行こ」

走り去る一団から抜けて、まことと法子が鵺野を覗き込んできた。

鵺野を心配したから、というよりは、息が切れたから一休み、のついでらしい。

「先生、大丈夫?」

「なのだぁ?」

ゆきめに支えられて、鵺野はようやく体を起こした。

「ろうしたんら?ころさわきわ」(どうしたんだ?この騒ぎは)

顎をさすりながらなので、酷く情けない声が出る。

意味不明の言葉を、付き合いの長い生徒達は理解してくれた。

「もうすぐホームルームが始まるって言ったら、あの子、学校を見学するって言って、教室を飛び出したの」

「それれ、おいかけっこか?」

2人が首を振る。

「ちょうど律子先生が、教室覗いたの」

「雪介くんが、おばちゃんって言ってしがみ付いたのだ」

「そうしたら、律子先生が、きゃーって言ったの」

「え?」

「雪介君が、何かしたの?」

身を乗り出すゆきめに、法子が真っ赤になった。

「あの…律子先生の……」

「ブラジャー持ってったのだー」

「あの子、背中に背負って走ってるのよ、あたし、恥ずかしくて」

鵺野とゆきめは仰天した。

「付けてるあんなものをどうやって…?」

「いや、そんなことより、早く捕まえないと」

まことを除いて、3人とも赤くなって立ち上がる。

「とにかく、みんなで手分けして探そう」

用具倉庫。

別に決められている訳でもないのに、追いかけられた生徒は、ここに逃げ込む事が多い。

パターンを踏襲するつもりはなかったが、鵺野はそっと引き戸を開けた。

鵺野の手を逃れた少年は、追いかける生徒達の追跡をまんまと躱し、あのまま姿をくらませていた。

その間、石川先生のジャージのゴムを切り。

教頭の眼鏡を隠し、まみ先生の帽子をチョークで真っ白にして、ついでに火災警報機まで鳴らしてみせた。

今や、ほぼ全校生徒から追いかけられる様になっている。

責任を感じたゆきめは、見つけ次第凍らせるとまで言い切って、生徒達と走り回っている。

鵺野は、ゆきめに子供を凍らせるような真似は、させたくなかった。

高窓からさし込む光が、埃のなかで斜めの筋を作る。

さっきここを探しに来た生徒達が、用具類を引っ掻き回して立てた埃は、未だおさまってはいない。

水晶球をかざし、白衣観音経を唱和する。

飛び箱の後ろに、気配を感じた。

「雪介くん、出てくるんだ」

静かに、声をかける。

後ろ手に閉じた扉の外を、子供達の足音が走りすぎる。

「恐い顔しないでよ、明兄ちゃん」

ひょいと少年が顔を出す。全然悪びれた様子の無い、屈託の無い笑顔である。

少年は、特に力を込めた様子も無く、ふわりと浮きあがるようにして、10段重ねの飛び箱に飛び乗ると、足を組んでにやりと笑った。

「ぬ〜べ〜先生が明兄ちゃんだなんて、みんなに言ったら、きっとびっくりするだろうね」

今までとはうって変わった、妖気の漂う冷笑に、鵺野は幽かに眉を寄せた。

「君は何者だ?」

「陽神雪介。陽神明の従兄弟だよ」

業とらしく首を傾げてみせる。

「君は、半妖だね」

ここまで気配を追えたのも、微かな妖気のお陰だった、ただし、走り回るゆきめの妖気に混じっていて、多少時間がかかったが…

「よく判るね、さすがは地獄先生だ」

飛び箱の上で胡座をかいて、雪介は嬉しそうに手を叩く。

「そうだよ、ぼくのかーさん妖怪なんだ」

「何が目的で童守町に来たんだ?」

あくまで詰問口調を変えない鵺野に、少年は首を竦める。

「童守小を見に来たんだ。どんなのかなって思って」

「なぜだ?」

重ねて訊ねると、雪介ははじめて眉を寄せて睨み付けきた。

大きな瞳が、かすかに色を変える。

「とーさんが嫌いだから!僕とかーさんに心配ばっかりさせる。とーさんが大っ嫌いだから!!」

室温がぐっと低くなった。

冷気が足元を流れ始める。

冷えて重くなった空気と共に、埃が沈んでいく。

「鵺野先生って、とーさんにそっくりだよ。僕…あんた嫌いだ」

冷気が呼ぶ微弱な風を纏って、少年は紫に変わった瞳で、鵺野を見据えていた。

【それ】に気が付いたのは、にわかに巻き起こった、陽神雪介捜索騒動に、興味本位で走り回っていた女子生徒だった。

高学年の少女ともなれば、殊の外自分の外見に気が向くものだ。

彼女も、鏡の前を通る時は、鏡像の自分に、一瞥を投げるのを忘れなかった。

階段の踊り場の鏡に、何時もの様にチェックを入れて、ふと、違和感に立ち止まる。

首を傾げながら、今度はゆっくりと覗き込む。

「うそーー!?」

彼女は思わず叫んでいた。

階段の踊り場の鏡がおかしい、という噂は、雪介探しで飛び回っていた生徒達に、瞬くうちに広まっていった。

興味をそそられた者は、すぐに噂の階段へ急行した。その中に、広達の姿が在ったのは、当然の事である。

「鏡がおかしいって、どう変なんだ?」

「自分の大人の姿が見えるんだって」

「ああん、ナイスバディで超美しい、あたしの未来が見えるのね」

「え、おれは赤ん坊の姿が見えるって聞いたぜ」

「とにかく見るのだ、面白そうなのだ」

「…でも、あの階段に、鏡なんて有ったかしら…?」

首を傾げ、あるいは目を輝かせ、子供達は人垣の出来た階段を見上げた。

階段の噂は、ゆきめの耳にも届いていたが、彼女には、そんなことを気にするゆとりなど何処にも無かった。

あの、素直で可愛らしい少年が、何故、こんな酷い悪戯をするのだろう?

見つけて確めなくては。

もしも、あの少年が自分を謀って、人に害を成す妖怪の本性を持っているとしたら…

いいや、そんな筈はない。あの子がそんな事を企むはずが無い。

既に自分の一部のような錯覚さえ覚えるほど、ゆきめはあの少年に愛情を抱いていた。

半泣き状態で走りながら、ふと、冷たい風を感じて、その方向を見る。

紫の霞のごとき妖気が、用具倉庫を取り巻いているのが見えた。

確信と共に倉庫に飛び込む。

「ああっ!?」

異様な光景が展開していた。

倉庫の中央で仁王立ちになった鵺野の回りで、あらゆる物が浮き上がっている。

ボール、マットレス、ハードル。果ては柔道用の畳まで、凍てつく空気の中、重さを失って漂っていた。

半ば崩れながら浮いている飛び箱の上に、雪介が半跏思惟の格好で座り、鵺野を睨み付けている。

「ゆ…雪介くん…」

あまりの事に、ゆきめはふらふらと雪介に近寄ろうとした。

しかし、ぐいと鵺野の左腕が突き出され、行く手を遮る。

「ゆきめくん、下がっているんだ」

「鵺野先生…」

左手は、未だ黒い手袋に包まれていた。

ゆきめは少し安心する、鵺野は鬼の手を使う気はないらしい、今のところは…

もっとも、鵺野が子供に攻撃できるはずがないのだが。

ゆきめは、すっかり様子の変わった少年に目を移す。

小さな唇が何か呪文のような言葉を紡いでいた。

「南無大慈大悲…救難……広大霊感」

切れ切れに聞こえる声明は、紛れも無い白衣観音経。

短い唱和を終え、冷気を纏って雪介がにやりと笑う。

自分と同じ経文を唱える少年に目を見張る鵺野に、笑ってみせたのだ。

「ねえ、鵺野先生。先生は生徒の為なら命懸けになるんだってね?」

小首を傾げて訊ねてくる。あくまでもからかっている様な口調だ。

「どうして?」

薄笑いを浮かべる態度や口調とは裏腹に、紫の瞳に真剣な光が閃く。それに気付き、怒鳴りつけるのを堪えてゆっくりと言葉を捜す。

「聞かれても困るな、理屈なんか無いんだ」

「どうして?あんたが、ただそうしたいだけ?」

重ねて訊ねる少年に、鵺野は大きく頷いた。

「そうだ、俺に出来るのはそれだけだからだ。自分に出来る事を、精一杯やっているだけだ。君にだって同じ事をするぞ」

鵺野の言葉に、意外にも少年は一瞬嬉しそうに微笑んだ、しかし、ゆきめの見慣れたその笑顔はすぐに消え、口元を引き結び、更に鋭い視線が取って代わる。

強まる妖気と共に、浮かんでいた体育用具がゆっくりと流れ始める。

嘘吐き…自分勝手…

食いしばった歯の内側で、小さく呟いているのが聞こえた。

更に冷えていく空気と強くなる妖気に取り巻かれながら、鵺野は少年が何かに激しく憤っているのを感じていた。

「そう言ってたのに…信じていたのに…」

「雪介くん…?」

異様な雰囲気に耐え切れず、ゆきめが呟く。

その声に気付いたのか、紫の瞳が向けられる。

「ゆきめお姉さんだって、先生が怪我したら哀しいよね。心配だよね」

同意を求めるというよりも、確認するような口調で聞いてくる。ゆきめはゆっくりと頷いた。

「ええ…」

泣き笑いのような表情で、雪介か頷く。

「そうだよね、いつもそうなんだ。かーさんはずっと心配してるんだ…」

体育用具の動きが速くなる。鵺野を中心に、次第に渦を巻き始めた。

少年はがっくりと俯いて、膝の上で握り締めた、自分の拳を見つめている。

その手がまだらな赤紫色に変わっている事に、鵺野は気が付いた。

はっとする。

倉庫の中は、既に氷点下の寒さになっている。前身に鳥肌が立ち、奥歯が震えるのを、力を込めて押さえているぐらいだ。

薄いTシャツに半ズボンの少年が、寒くないはずが無い。たとえ、自分で作り出した冷気であっても…

妖力がいくら桁外れでも、身体は人間の幼い子供なのだ。このままでは、少年の体が持たない。はやく止めさせなければ。

鵺野は一歩前に踏み出した。

「雪介くん。もう止めるんだ…」

「嫌だ!!」

鵺野の言葉が終わらないうちに、激しい拒絶の言葉と、硬く凍ったボールが叩き付けられる。

「ぐっ!!」

したたかに肩へ打ちこまれ、鵺野が歯を食いしばる。衝撃に耐え切れず、ボールは陶器のように砕け散った。

「鵺野先生!!」

思わず駆け寄るゆきめを背に庇い、少年を見据える。

「雪介くん。君は本当にお父さんが嫌いなのか?」

雪介は俯いたまま答えない。

かわりにもう一つボールが叩き付けられる。

砕け散る破片を、ゆきめが更に凍らせて床に落とした。

「君のお父さんは、君に嘘を吐いたのかい?」

そうではないという確信があった。

多くの子供を見てきた経験が、教えてくれる。

雪介は、愛情に包まれて育った子供だ。そして、愛する事も知っている。

だが、彼は何かに怒っているのだ。

「お父さんが嘘を吐いたから、君はお父さんが嫌いなのか?」

鵺野の言葉に、雪介は激しくかぶりを振った。

「…嘘を吐いていなくたって…言った通りに出来なかったら、嘘吐きとおんなじだ!!とーさんの馬鹿ァ!!」

悲鳴の如き叫びと共に、回りで渦巻いていた、体育用具が、次々と鵺野に向けて叩き付けられた。

階段の奇妙な鏡に集まる生徒は、次々に鏡の前で歓声をあげていた。

長い順番待ちの末、やっと鏡の前にたどり着いた広達は、待ち時間の間に取り決めた順番で、鏡に向かった。

まずわくわくと覗き込んだまことは、鏡の中の自分が、見る見るうちに縮んでいくのに目を見張る。

ついには赤ん坊の姿になってしまった。

「うわーー!!」

「どうした?」

「どうなった?」

まことの歓声に、我慢できなくなった克也と広が、鏡の前に出る。

「へへー、赤ん坊だぁ」

「今とかわんねーじゃん」

「酷いのだ!!」

憤然とするまことの前で、克也と広の胸像も縮み始める。

鏡の中では、3人の赤ん坊が這い回っていた。

ひとしきり笑い合う男子の後に、郷子、美樹、法子が苛々と待ち構える。

「ちょっと、広。後ろつかえてるんだからね。早くしてよ」

「そうよそうよ」

「あたし・・まだいいけど・・」

女子の抗議に、広は肩を竦めた。

「へーへー。喧しいなー」

口を尖らせつつ鏡の前を退く。おさげを気にしながら、郷子が前に出た。

ピンポンパンポ〜〜ン。トッキーの鏡占い〜〜」

何処からとも無く、妙にくぐもった声が聞こえた。

「え?」

は〜い。そこのスレンダーな君。君の未来の姿は〜

声と共に、郷子の胸像が延び始める。手足はすんなりと伸び、細い腰に楚々としたうなじ。ヒップは小さ目なのに、インパクトのあるバストの、目にも鮮やかな美女が立っていた。

ナイスなキュ〜ティ〜バディの美女に決定〜!!

「まあ…」

思わず頬を染めて、自分の姿に見とれる。

「なんだなんだ?どんな赤ん坊だ?」

冷やかしに覗いた広が、鏡の中の美女に真っ赤になった。

「すげ…」

後ろで盗み見た美樹が、赤い顔の2人を押しのけて前に割り込んできた。

「郷子がそれなら、あたしなんか、超ナイスバディの世紀の美女よ!!判ってんでしょうね、鏡!!」

手は腰に、胸を反らせて仁王立ちになる美樹へ、例の声が聞こえる。

「へ〜い。そこのダイナマイトバディの君」

「あら、判ってるのね」

「君の未来の姿は〜」

見る見るうちに姿が大きくなっていく。しかし、縦以外に、横にもたっぷりと広がっていき、重たそうなバストと、大木のようなウエスト。樽にしか見えないヒップの、堂々たる巨漢が出来あがる。

「決定〜体重120k〜!!ダイナマイトなGカップ〜この姿はすでに牛!御愁傷様〜」

「あんぎゃ〜〜!?」

白い泡を吹いて、美樹は仰け反った。

「どうしたの?美樹ちゃん」

ただならぬ美樹の様子に、法子が慌てて駆け寄る。

と、鏡の中の法子は、軟らかな髪の、色っぽい美女へと変身していく。

見事な曲線を描く姿に、後ろから覗き込んでいた克也が、鼻を押さえて悶絶した。指の間から血が滴っている。

「おお〜麗しの君〜立てば芍薬、座れば牡丹〜歩く姿は百合の花〜」

「まあ…そんな♪」

ぽっと頬を赤くする法子の横で、牛ショックから立ち直った美樹が、頭から湯気を立てて、むくりと起き上がる。

「なーにが、鏡占いよ…」

目が据わっている。

ガシッと鏡の縁を握り締めると、力任せに揺すり始めた。

「あんた、出任せ言ってんじゃ無いわよ!!このあたしが牛ですってぇ〜〜!!」

「美樹ちゃん、鏡が割れちゃうわ」

制止する法子の声など聞こえ無い。

美樹はなおも鏡を揺すっている。

「ちょっとー、前、何してるのよー」

「早くしろよー」

後ろの方からも、文句の声が投げつけられる。

「喧しい!!外野は黙っててよ!!」

怒鳴りつけながら、はあはあと肩で息をつくと、やっと鏡を離す。

「まったく…失礼ぶっこいてくれるじゃないの…」

ぼやきつつ、鏡を睨み付ける。

ふと、鏡の中で、何かが笑った。

「?」

いぶかしんで顔を近づけると…

べろん

何か、生暖かくて、湿った物が頬を撫ぜた。

「え…?」

もう一度、反対側のほほを撫ぜられると、ようやくそれが舌であると合点がいく。

…舌…

「キャーーーー!!」

魂切る様な悲鳴を上げて、美樹が郷子にしがみ付いた。

「美樹!?」

「この鏡お化けーー!!」

親友のうろたえ振りに、驚いた 郷子が鏡を見つめる。

しかし、なにも起こらない。鏡は沈黙したままである。

「美樹ィ、自分の未来が酷かったからって、鏡の所為にするなよ」

鼻にティッシュをねじ込んだ克也の冷やかしに、美樹は激しく首を振った。

「本当よ!あたし舐められたのよ!見てよ、未だよだれ付いてるんだから!!」

てかてかと光る頬を示して、美樹が叫ぶ。

郷子が慌てて飛び退いた。

「うっそでー」

「マジィ?」

後ろの方から、馬鹿にしたような野次が飛ぶ。

なにせ、被害者が美樹なのだ。

霊体験は確かに多いが、出任せと空騒ぎも多い。本気にする者は少ない。

「本当よ!!信じなさいよ!!」

外野に噛み付く美樹を見ながら、広が郷子に呟いた。

「階段に有る鏡の怪…これがほんとの階段の怪談…なんちゃって」

回りに居た者は、全員凍り付いた。

氷点下の沈黙が流れる。

こける事さえ憚られる下らなさに、全員が止まっていた。

そんな止まった時間を破ったのは、地の底から響く様な笑い声だった。

「うへうへうへうへうへへへへへへへへへへへ〜」

その声が何処から聞こえてくるのか解かった時、狭い階段はパニックに陥った。

「うわあ!!」

「鏡が笑ってるーー!?」

「お化けだぁぁぁぁ!!」

蜘蛛の子を散らすように逃げ始めたが、下り階段の上で、女子生徒が躓いて転んだ。

倒れる時、思わず前の子供を押してしまい、次々と将棋倒しに倒れていく。

階段は、あっという間に、うめいたり泣いたりする児童達で埋め尽くされた。

突然の大惨事に、1番慌てたのは、一応付いていた教師よりも、この騒ぎの中心となっている鏡であった。(らしい)

鏡は、壁からゆらゆらと浮き上がると、下から2本の足らしい物がにょっきりと突き出してくる。

左右からは枯れ枝のような細い両腕。上には、貧相な顔らしい塊が現れた。

階段で転んだ生徒達を、助け起こしていた郷子達を背に庇って、広が、鏡の妖怪の前に、両手を広げて立ちはだかった。

「化け物め、ここまでだ!!」

「うへへへへ?」

鏡の妖怪はなおも笑っている。

「ちょっと、克也、まこと!!ぬ〜べ〜呼んでくるのよ!」

すかさず郷子が叫ぶ。

「わかった!!」

「呼ぶのだー」

要領よく階下に降りていた2人は、大きく頷くと、脱兎の如く駆け出していった。

マットが、畳が、ボール類が篭ごと、襲い掛かってくる。

大きな物は、ゆきめが凍らせて落とし、鵺野もまた、鬼の手を閃かせて叩き落としていく。

だが、さすがに、野球のボールやテニスのボール等は、2人のガードをすり抜けて鵺野に命中した。

小学生用の軟式球とはいえ、完全に凍った球は恐ろしく硬い。

「ぐふっ!!」

強烈な一撃を鳩尾にくらい、鵺野がよろめく。

しかし、その目は少年の姿に、据えられたままであった。

雪介は、感情を爆発させて、手当たり次第に物を投げつけてくる。

引き結ばれた唇は、既に紫色になり、顔も全身もすっかり血の気を無くしていた。

激しく妖力を使ったために、体力の消耗は著しく、はあはあと肩で息をしている。

白い息は、吐き出された瞬間から、煌くダイアモンドダストになっていた。

明らかに、雪介は限界に来ている。

これ以上こんな事を続けては、少年の命を削っていくようなものだ。

「とーさんの馬鹿、とーさんの馬鹿」

雪介はそればかり繰り返している。

「雪介くん。君のお父さんは、嘘を吐いたり、自分の言った事をしないような人では無いはずだ」

鵺野がゆっくりと言う。

「そうじゃ無いのかい?」

未だ激しい怒りを浮かべて、紫の目が向けられる。

「そうだよ!!でも、一番大事な約束を破ったんだ!!他人との約束は守れても、僕たちとの約束はどうでも良いんだ!!」

大小様々なボールが鵺野に殺到した。

躱し切れずに数個のボールが命中する。

鵺野の身体に激突する度に、硬い音を発してボールが砕け、鋭い破片が四方に飛び散った。

ゆきめを庇って、鵺野の頬が深く裂ける。

滲む血を見て、雪介はわずかにたじろいだ。

滴る血を拭いもせずに、数も減り、勢いの弱まった渦の壁に、鵺野が足を踏み出す。

「お父さんが、君との約束を破ったから、君はお父さんが、嫌いなのか?」

「…そうだよ。僕やお母さんが苦しい時は、側に居るって言ってたくせに。お母さんが苦しんでたのに、側に居なかったんだ」

恨めし気に鵺野を睨む雪介の目には、半分凍りかけた涙が光っている。激しく首を振ると、涙は氷の粒となって飛び散った。

体育用具がぶつかるのも構わずに、鵺野がもう一歩前に進む。

頭めがけて飛んできたハードルが、寸前で凍りついて落ちる。

残っていたマットや畳も、次々に凍らされて落ちていく。

大きな物をあらかた無くし、ゆきめは、鵺野の背中に駆け寄った。

「邪魔しないでよ!」

雪介の声に、彼女は顔を上げ、少年を見詰めた。その目には、大粒の涙が浮かんでいる。

「雪介くんこそ、もう止めて!このままじゃ、貴方が死んじゃうわ!!」

悲痛な叫びを上げ、そのまま崩れる様に座り込む。

ゆきめは、鵺野と雪介、2人が心配だっだ。

自分の妖力で、命を削っているような雪介。目の前の相手から、決して逃げない鵺野。

どちらも、これ以上傷つかないで欲しい。

「お願い…もう止めて…」

取り乱すゆきめの姿に、少年は戸惑っていた。

「…でも…僕…僕…」

ぎゅっと口元を引き締め、激しく首を振る。

「駄目だよ!!僕どうしても、どうしても許せないんだ!!」

どんどん白蝋の様になっていく雪介を見つめながら、鵺野は焦る気持ちを必死で押さえていた。

元来、口で説得するのは得意ではない。

だが、今少年に必要なのは、言葉だった。

雪介は、自分に父親を重ねているらしい、その父親の代わりに、少年を苛む憤りや、怒りへ、何らかの答えを与えてやらなくてはならないのだ。

それに時間も無い。

凍てついた倉庫内は、もはや、壁に触れるだけで皮膚が剥がれる程だ。

凍死寸前の少年に、早く妖力の発散を止めさせなくては。

鵺野はもう一歩少年に近付いた。

「雪介くん。君は、お父さんが何故、約束を破ったのか、その理由を知っているんだろう?」

びくんと雪介が震える。

鵺野に向けられた目は、再び強い光を帯びていた。

「知ってるよ!よその人を助けて、自分が大怪我をしたんだ!もう少しで死んじゃうところだったんだ!!」

体育用具の渦が止まり。残っていたボール類が、雪介に向かって集まり始める。

目の前に近寄ってきたボールを、雪介が叩くと、冷たい気を吹き込まれ、凄まじい勢いで飛んできた。

咄嗟に避けると、それは床に当たった形のまま凍り付く。

力の強さは、雪介の怒りの強さそのままだった。

「とーさん、他所の人の方が大事なんだ!自分が死んだって、他所の人が助かるのが良いんだ!!かーさんが苦しんでても、他所の人が大事なんだ!とーさんなんか嫌いだ!!」

手に触れる物を、次々に鵺野に叩きつける。

その姿には、もう妖気の欠片も無く、歳相応の子供が、父に対しての怒りに、地団太を踏んでいるだけだった。

「赤ちゃん産まれたのに!!かーさん苦しがってたのに!!がんばってたのに!!とーさん、死んじゃうとこだったんだよ!!とーさんの馬鹿ぁ!!」

雪介は、完全に泣き出していた。

「どうしてさ。何で何時も他所の人の為に、一生懸命になるの?とーさんが居なくなったら、僕達どうしたらいいの?」

「君はお父さんに、どうして貰いたいんだ?もう、人が困っていても、君たちの為に知らない振りをする人に、なってもらいたいのかい?」

「違うよ!!」

静かに問われて、少年は飛び箱の上に立ちあがった。

半ズボンから、氷の粒が乾いた音を立てて飛び散っていく。、

「とーさんが、そんな事する訳ないや!」

「そうだ!」

浮かぶ飛び箱のほぼ下に立って、力強く鵺野が頷いた。

「君には解かっているんだよ。君のお父さんが、どれだけ立派な人なのか」

虚を衝かれて、雪介は鵺野を見下ろしている。

その目をまっすぐに見詰め返して、彼はゆっくりと微笑んだ。

「雪介くん、お父さんが何をしてくれるのか、ではなく、君が、お父さんに何が出来るかを考える事が大事だと、俺は思うよ」

「え…?」

思っても見ない言葉に、雪介は呆然と瞬きをした。

「僕が…出来る事…?」

「ああ」

鵺野は再び頷く。

「……とーさん…僕…」

戸惑って考え込んだ少年が、不意に、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。

「解かったよ!僕。解かった!!」

笑顔をそのまま鵺野に向け、雪介は大きく手を広げた。

「解かったよ!!解かったんだ!!」

嬉し気に叫んだ途端。

ふっと視線が宙をさまよい、空ろな表情になった少年は、糸が切れた人形の様に、前のめりに倒れこむ。

同時に、妖力の支えを失った飛び箱が、音を立てて崩れ落ちた。

「鵺野先生!!雪介くん!!」

ゆきめの悲鳴が、響き渡る轟音に重なる。

もうもうと立ち上る埃の中に、ゆきめは飛び込もうとすると、

「大丈夫だ」

声と共に、雪介を抱いた鵺野が、ゆっくりと、崩れた飛び箱の間から立ち上がった。

「鵺野先生…雪介くんは?」

鵺野の腕の中で、雪介がうっすらと目を開ける。

「とーさん…僕、とーさんを助けたかったんだ。とーさんを守りたかったんだ…でも、それが出来なかったから、悔しかったんだ…」

呟く少年に、鵺野が頷いた。

「人の為に、精一杯頑張る君のお父さんは、本当に素晴らしい人だ。俺も、君のお父さんの様になりたいよ」

鵺野の言葉に、雪介は幽かな笑みを浮かべた。

「なれるよ、絶対。僕が保証したげる…」

そのまま瞳は閉じられ、力を使い果たした身体から、ぐったりと力から抜ける。

「気を失ったらしい」

冷え切った身体は、氷の様に冷たい。

「酷い状態だ。早く保健室に運ぼう」

凍付いた扉はゆきめによって開かれ、倉庫内に比べれば、別世界に暖かい外に飛び出すと、2人は保健室へと走った。

それにしても、と、鵺野は走りながら苦笑する。

まるで強引に言い包めたような説得の仕方だったが、少年は、どうやら答えを見出してくれたらしい。

小さい体を少しでも暖めようと、彼は雪介の頭上に、鬼の手を翳した。

気を与えていると、雪介が微かにうめいて、手を動かす。

顔へと持ち上げられた手が、鬼の手にぶつかると、小さな手が弱々しい力で指を握ってくる。

途端に、鵺野の頭の中に、本流の如きイメージが雪崩れ込んできた。

童守小によく似た建物。クラスメートの子供達。見覚えのある面差しの優し気な女教師。そして、たおやかな着物の女性。

微笑む彼女の横に立つ男が、ゆっくりと身を屈め、おそらく雪介を抱き上げようと手を伸ばす。

男の手が見え、愕然とした。

「この子は…いったい…」

喘ぐ様に呟く。

「先生、どうなさったんです?」

立ち止まった鵺野に、訝し気にゆきめが訊ねてくる。

「…いや、何でもない…」

何とかそれだけ答えつつ、鵺野はなおも雪介を見つめていた。

「あーー!いたのだー!!」

「先生、んなとこで何やってんだよ!!」

まことと克也が、2人を見止めて駆けてくる。

「どうしたの?」

どうも様子がおかしい。

「何かあったのか?」

「あー雪介くん見つけたのだ!!」

まことが能天気に笑う。

「んな事言ってる場合かよ!大変なんだよ!!」

「克也、何があった!?」

鵺野の問いに、克也は後ろを指差す。

「化け物だ!!向こうの階段の3階の踊り場だよ!!」

「何ぃ!!」

「判った!すぐ行く!」

いつもの様に、厳しい視線で階段の方角を見据えながら、鵺野が雪介をゆきめに託す。

「ゆきめくん、雪介くんを頼む」

「はい」

頷いて、雪介を受け取ったゆきめは、保健室へと歩き出した。

雪介の身体は未だ冷たい。自分では、いくら抱きしめても、雪介を暖める事は出来ない。

氷の妖怪である自分が、恨めしく思えた。

腕の中で、雪介が身じろぐ。

「雪介くん?」

呼びかけると、数度瞬きをして、はっきりと目を開けた。

「…お姉さん…」

掠れた声で、ゆきめを見つめる。

「何処も痛くない?苦しくない?」

しゃがみ込み、膝に雪介を乗せて、まるで母親がする様に、体中を撫で摩ると、雪介はくすぐったそうに立ち上がった。

「大丈夫。鵺野先生が、気をくれたんだね。体の中があったかいよ」

両手を振りまわして見せる少年を見て、ゆきめはようやく安堵のため息を吐いた。

「よかった…」

立ち上がるゆきめに、はにかんだ笑顔が向けられる。

「お姉さん、ごめんね」

体育用具倉庫での事を、謝っているらしい。

憑き物が落ちた様に笑う雪介に、ゆきめは少しだけ難しい顔をしてみせた。

「雪介くん。家庭の危機って嘘だったのね?」

「あちゃあ」

と、小さく叫んで、首を竦めた雪介は、決まり悪気に見上げてくる。

「嘘吐いちゃ駄目でしょ?」

めっと強い顔をしてみせると、少年はぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい、鵺野先生に会う時は、そう言った方が良いって、友達のお姉さんが言ったんだ」

「雪介くんは、鵺野先生に会いに来たの?」

こくんと雪介が頷く。

「うん、本当はそうなの、鵺野先生とお話がしたかったんだ」

「そうなの」

「うん、嘘吐いててごめんなさい」

ゆきめは微笑みながら首を振った。

「良いのよ、もう怒っていないわ」

途端に、少年がにぱっと笑う。

「よかった」

同じ様に笑いあって、雪介が回りを見回す。

「鵺野先生は?」

「向こうの階段に化け物が出たんですって、みんなと走って行ったわ」

雪介は飛び上がった。

「大変だ!!」

ゆきめの手を掴んで走り出そうとする。

「お姉さん!階段ってあっち?」

鵺野が向かった方を指し示す。

「ええ、そうよ。怪物なら、先生が行ったから、大丈夫よ」

心配はしているのだが、あえて気楽に言ってみせる。

だが、少年は激しく首を振った。

「違うんだ!!駄目なんだ!!」

血相を変えた雪介に、ゆきめは首を傾げる。

「どうしたの?」

「大変なんだ。駄目なんだ!急がなきゃ!!お姉さん早く!!」

雪介に引っ張られるまま、ゆきめも走り出した。

鵺野の目に飛び込んできたのは、今にも広に掴み掛かろうとしている、化け物の姿であった。

「やめろー!!」

未だ至る所に子供達が蹲り、すすり泣いたり、うめいたりしている惨状を、一足飛びに跳び越えて、鵺野は、広と化け物の間に踊り込む。

鵺野に驚いて、鏡の妖怪は、一旦壁際まで退いた。

うへ?

よたよたと動きながら、首を傾げて鵺野をじっと見つめてくる。

すぐに攻撃をしてこないと見て取って、鵺野は広に声をかけた。

「広、怪我は無いか?」

「ああ、おせーぞ、ぬ〜べ〜」

冷や汗でびっしょりな癖に、そんな憎まれ口を叩いてみせる。

鵺野は安堵の吐息をもらし、再び化け物へ目を向けた。

「化け物め、俺が相手だ!生徒達には、指一本手出しさせん!!」

鬼の手を構えて、そう言い放つ。

鋭い視線に晒された化け物は、鵺野と鬼の手を交互に見比べて。

……暫く考える。

ひ〜〜〜〜〜〜!!」

どうやら、鵺野の言う事が判ったらしく、化け物が悲鳴をあげて跳びあがった。

そのままへたり込むと、頭の上で両手を擦り合わせ始める。

お助け〜〜〜お助け〜〜〜

啜り泣きの様な声が聞こえて来る。

「なぁ、ぬ〜べ〜。こいつなんか変だぜ」

情けない怪物の様子に、広が拍子抜けした声を出した。

「化け物を随分見てきたが、こんな妙な奴は初めてだな…」

構えは解かないものの、鵺野もまた、気勢を殺がれて呆れている。

妖怪は、なおも哀れっぽく命乞いし続けていた。

と、そこに。

「待って待って待ってーーー!!」

叫びながら、雪介が跳び込んできた。

「雪介くん!?」

目を見張る鵺野の前に、化け物を庇って雪介が両手を広げる。

「止めて、先生!!これ、僕の友達なんだ!」

意外な言葉に、回りのみんなが驚いた。

「友達ィ!?」

雪介はくるりと振り向くと、化け物の頭をぺちんと叩いた。

「時逆時順、駄目だろう?大人しくしている約束だったじゃ無いか!!」

腰に手を当てて叱り付ける少年に、これまた驚いた事に、妖怪は、しゅんとして頭を下げた。

坊っちゃん、すいやせん

目を点にしたまま、郷子が階段から首を出してくる。

「雪介くん。はぐれた友達って…これ?」

時逆時順と呼ばれた化け物を指差してみせる。

「うん。はぐれた時の待ち合わせ場所が、ここだったの」

何でまた、学校が待ち合わせ場所なんだろう…?

全員の考えを悟って、雪介が続ける。

「時逆達は、僕の学校で、鏡のバイトしてるの」

「妖怪が、学校で、バイト?」

「うん。トッキーの鏡占いって、よく当たるから、みんなに好評なんだよ」

当たる、と聞くや、郷子と法子は赤くなり、美樹は「うーん」と唸ってひっくり返った。

事情を知らない鵺野に、まことが事の顛末を耳打ちする。

牛ショックにひとしきり笑っていると、雪介は妖怪の手を引いて、子供達の前に立たせる。

「ほら、時逆、時順も。みんなに謝るんだよ」

言いつつ、妖怪の肩口に手を置いて。何やら力を入れ始めると、パリンという音と共に、ただでさえ薄い妖怪は、前後2枚に分かれ、そっくりな2匹の妖怪となった。

「こっちが時順で、こっちは時逆。双子の妖怪なんだ」

雪介の紹介に、妖怪達は、揃って会釈をする。

雪介坊っちゃんのペットをしておりやす。時逆と申しやす。此の度は、ご迷惑を御掛けしやして、誠に申し訳ねぇでやす

同じく、時順だよ〜〜

今までとは打って変わって、流暢に喋り出す妖怪達の、妙な言葉に、再び全員が、目を点にした。

「ペット…?」

しかし、少年は唇を尖らせる。

「またぁ。時逆、時順。僕達は友達だよ」

お〜マイロ〜ド

へい、ありがてぇこってす。でも、あっしたちゃぁ、坊っちゃんに命を助けて頂でぇたあの時から、一生ペットとして御使えする心意気でござんす」

「そうだよ〜〜」

言い張るペット達に、雪介は肩を竦めてみせた。

「何時もこうなんだもんなぁ」

そして、2匹の妖怪と、1人の子供は、1列に並ぶと、

「せーの。みなさん、どーも、お騒がせしました!」

雪介の指示の元、一斉に頭を下げた。

「………」

意外な成り行きに、全員声も無く、その有り様を見つめるだけであった。

夕暮れの公園に、鵺野達は、雪介達と佇んでいた。

「なあ、雪介。こんなとこからどうやって帰るんだ?」

訊ねる広に、雪介はにこにこ笑う。

「時逆達が連れて行ってくれるんだ」

「そうなのか。あいつ等空も飛べるのか?便利だな」

「良いペットなのだ」

男子達は素直に納得している。

その後ろで、美樹が郷子と法子に耳打ちしていた。

「ねえ、雪介くんのお父さんって、大怪我してたんですってね」

「うん、しかもお母さんが、赤ちゃん生んでる時」

「家族には、結構迷惑かける人よね」

「誰かに似てない?」

3人の視線の先に居る人物は、雪介に歩み寄った。

「雪介くん、気をつけてな」

少年が鵺野を見上げながら嬉しそうに笑う。

「ありがとう、鵺野先生」

少し離れていた時逆達が、雪介を呼ぶ。

坊っちゃん。そろそろ行きやすぜ

「うんわかった。今行くよ」

快活に答えて、鵺野とゆきめに向き直った。

「先生、お姉さん。僕ね、お父さんの手伝いをする事に決めたんだ。それにね、将来、学校の先生になる事に決めたんだ」

目を輝かせて、雪介はそう宣言する。

自分の未来を見つめる真っ直ぐな目に、鵺野は微笑んだ。

「そうか」

「じゃあ、僕帰るよ」

「気を付けてね、雪介くん」

こくんと頷いて、踵を返す。

駆け出して、ペットの側へ行こうとし、ふと立ち止まる。

再び引き返してきた少年は、2人の前に戻ると、屈んでくれと手招きした。

「なあに?」

「どうした?」

顔を寄せると、雪介がそっと耳打ちしてくる。

「あのね、2人とも、ずっと仲良しで居てね。でないと僕…」

少し躊躇って、思い切ったように続ける。その時、強いつむじ風が吹き抜けた。

「…まれて来れないから」

「え?何」

聞き返したが、既に雪介は走り出していた。

待ち構える2匹のペットが、少年を挟む様にして立つ。

「みんなーー!またねーー!」

明るい声が響き、少年が手を振る。

「おう!またなー」

「遊びに来いよ」

「ばいばーい」

子供達が口々に答える。

再び強いつむじ風が渦巻いた。

一瞬、みんなが瞬きし、既に少年もペットの姿も消えているのに気が付く。

風に弄られた髪をかきあげて、ゆきめが小さく呟いた。

「不思議な子…鵺野先生。また、あの子に逢いたいですね」

そっと鵺野の腕が肩に回される。

力強く、しかし優しく、恋人の肩を抱いて、鵺野はゆっくりと頷いた。

「逢えるよ、きっと」

鵺野の口元には、不思議な笑みが浮かんでいた。

後ろから、美樹の声が聞こえてくる。

「あたし、思い出したわ。時逆、時順って。過去と未来を自由に動ける、タイムマシン妖怪よ…」

吹きすさぶつむじ風が、後の言葉を攫って行く。

頬に当たる風は少しだけ柔らかく、春の予感を孕んでいた。

END

 

 

 

 

SEO [PR] [ {n fヲ ^T[o[ SEO