速魚の休日


  暖かな一日であった。

スカッと音がしそうなほどの勢いで、空は晴れ渡っている。
全ての生き物が冬の冷たさから解放され、柔らかな太陽光線が町並を照らし、小鳥がさえずり花が咲き匂う、輝く春の季節。
道行く人々の顔にも、どこか和やかな表情がかいま見える、そんな陽気な日。
・・であるにも関わらず。
ストレスの権化のような、仏頂面をさらしている男がいた。
「ったく、速魚の奴!」 
  童守小学校教師、鵺野鳴介。通称ぬ〜べ〜。こ
れがこの男の名前である。

そこは東京都内の、とあるテーマパークの入口
だった。中は休日だけあって、たくさんの家族
連れや恋人達で賑わっている。
よほど面白いんだろう、子供達がキャーキャーと騒ぎながら、入口ゲートの側を駆け抜けていった。
普段のぬ〜べ〜なら、微笑みながら眺めている光景なのだが・・・
しかし、彼はそれらを横目でにらみながら、この日20回目の、『時計に目を落とす』という行為を繰り返した。
自分も中にいるのなら、いい。んが、自分はゲートの外で待ちぼうけを食わされているというのに、ゲートの中の楽しげな様子を見せられるというのは、生殺し以外の何ものでもないだろう。
「もう1時じゃないか」
待ち合わせたのは11時のはずである。
そろそろ堪忍袋の緒も切れようというものだ。 
  なのに連絡を取ろうにも、相手の住所は海の中ときた。
「やっぱり断るべきだったかな・・」
でももう遅い。
二時間前には、ぬ〜べ〜と同じく相手を待っていた者達は、来た連れと中へ入ったり、諦めたりして、既に一人もいない。今いるのは新手ばかりだ。
ふと見ると、ゲート係の女の子が、気の毒そうな顔でこちらを見ていた。白いワイシャツに黒ネクタイ、黒ズボンという、およそこの場に似合わない服装をした男は、いやでも目につくのだ。おそらく向うでは、色々と噂しあっているに違いない。
「くっそー。これじゃあ、まるでフラレ男じゃないかあ」
違うんだ、自分にはちゃんと「ゆきめ」という一途な恋人が・・と駆け寄って弁解したくなる気持をぐっとこらえる。何だか無性に情けなくなって、ぬ〜べ〜はゲートに背を向けた。
 
  
そもそもの発端は、昨日の午後だった。
ぬ〜べ〜の前に、大きな包みをもって現れた人魚の速魚が、二枚の遊園地フリーチケットを差し出したのである。
「どうしたんだ、これ?」
「商店街のおじさんが、丸い箱を回してみろって言ったんで回したら、くれたんですよー」
「丸い箱・・・ああ、福引か」
童守商店街で、今大々的にやってるやつだろう。確かに景品の中に、それらしいものがあった記憶がある。
ぬ〜べ〜も景品の米半年分が欲しくて、券をもらってはトライしているのだが、当たるのはティッシュばかり。霊能力も、運には作用しないらしい。 
  「親切な人ですよねー」
「いや、おじさんはそれが仕事なんだが・・」
ちなみに、包みの中身は電気スタンドだった。
どうして人魚がお金を持ってるんだ?海の中で電気スタンドなんか使えるのか?エトセトラの疑問は、まあ置いといて。
・・コワイ答えが返ってきそうで、聞けなかったんである。
ともかく。
どうしても遊園地、テーマパークという所に行ってみたい、けど陸の上では他に頼れる人がいないんですよう、と速魚に泣きつかれてしまったぬ〜べ〜は、彼女に付き合ってやることにしたのだ。
そして今日、11時に待ち合わせをし・・・今にいたる。
 
  この時から悪い予感はしていたのだが・・・

「あの子が関わるといつも、予定どおりにはいかないからな」
そこまでつぶやいたとき、ふとぬ〜べ〜の頭に不安がよぎった。
速魚は、ダイヤモンドの筋金入りの、大ボケドジ娘なのだ。
昨日、ここまでの道順を何度も念を押して教えて、速魚も分ったと言ったんだ、大丈夫だろうと思っていた自分が、甘かったのかも知れない。
ここまで遅いということは、迷子になっている可能性も大いにある。
いや最悪、変な男に連れてってやるとか言われて、くっついていったりとか、どこかで干からびている可能性だって・・・

 
  
ぬ〜べ〜は霊水晶を取り出した。
霊妖怪の類がウヨウヨいる童守町と違い、この辺で強い気を発するものがいれば、すぐに解る。速魚なら確実にひっかかるだろう。
そうだ、最初からこうすれば良かったのだ。そうすれば、こんな無駄な時間を過ごさずにすんだのに・・
しかし、霊水晶を掲げるより早く、
「鵺野せんせぇー」
と、これでもか!って位にノーテンキな声が、ぬ〜べ〜の耳に届いた。
「・・この、なーんも考えてなさそうな声は・・・やっと来たな」
「おはようございます、鵺野先生♪」
ため息と一緒にぬ〜べ〜が振り返ると、予想どおり、悪意というものから世界一離れた笑顔と共に、人魚姫・速魚が立っていた。
レースのついたライトブルーのワンピースが、よく似合っている。
「速魚、今はもう昼だぞ」
「そーなんですかあ?お腹が空いた空いたと思ってたんですけど、いつの間にかお昼になってたんですねえ・・・あら?うずくまって何してるんですか先生? おまけに頭なんて抱えちゃって・・あの、体の調子が悪いんでしたら、早く病院に・・・」
「いや・・・いい」
速魚は、江戸時代から干からびてミイラになっていた所を、ぬ〜べ〜に助けられた人魚だ。
日本の人魚は、お世辞にも美しいとは言いがたいのが多いようだが、彼女の容姿はかなり高水準である。美貌で知られる西洋の人魚族に近いのかもしれない。
しかし、性格の方は前にも書いたとおり、かなりおバカというか、ドジというか・・・
(いい娘なんだけどなあ)
もう一度大きく息を吐くと、ぬ〜べ〜は立ち上がった。
「遅い!!2時間も待たせるなよ」
「すみません、途中で道に迷っちゃって。周りの人に聞いて、やっと来れたんです」
速魚自身は謝っているつもりらしいが、ニコニコと笑顔エネルギーを振りまいていては、説得力がまるっきり、ない。
「それに私、時計って持ってなかったんですよね。ついそのこと忘れてましてぇ。カレンダーは持ってるんですけど・・・」

クラッ

ぬ〜べ〜は再びめまいを感じてひっくり返りそうになった・・が、なんとか立ち直ったようだ。
「だ、だから海まで迎えに行くって言っただろ? 心配してたんだぞ。君は素直すぎる。悪い男にもひょいひょい付いていきそうだからな。ホントに目が離せない」
ヒクつきながらも優しく答えることに成功したのは、そこら中からかき集めた自制心のたまものだろう。
速魚に悪気がないことは分っているから、厳しく怒る気にはなれないぬ〜べ〜だった。
しかし、
「そんなに世間知らずじゃありません。こう見えても、人生経験は先生より長いんですからね」
「長けりゃいいってもんでもないと思うが・・」
ぼそっとツッコミを入れるくらいは、許されてもいいはずだ。
「何かおっしゃいました?」
「い〜や、別に。さ、早く入るぞ」
2時間立ちっぱなしだったおかげで、足がいたい。
ぬ〜べ〜は半ば彼女をひきずりながら、やっとゲートをくぐった。
 
  

とりあえず腹ごしらえを、と入ったファミリーレストランで、速魚は注目の的だった。外見上は人間の美少女なのだから、当然だ。
カップルの片割れがチラチラと目線を送っては、もう片方に睨まれるという光景が、あちこちで展開されている。
しかし・・・
この上、これまた美少女の彼女がいることを知ったら、彼らにマジでタコ殴りにされかねない、その羨望の相手はというとーー
めいっぱい奮発したハンバーグ定食をがっつきながら、説教を垂れていた。
「いいか?くれぐれも言っておくが、絶対に水に近付くなよ。君が人魚だってことがバレたら、間違いなく研究所送りにされるんだぞ。分ってるのか?」
童守港の魚河岸で、マグロと添い寝していたところを捕えられ、あやうく解剖されかかった事件がそれを証明している。
生物学的興味だけではない。人魚の血肉に、不老不死の効果があるらしいという噂は、割と有名なのだ。速魚のことを知れば、これを狙おうとする輩は、掃いて捨てるほど出てくるだろう。
そして、速魚の変身は水がかかると解けてしまうのだ。
だが、当人を見ていると、どうもそういう危機感が感じられない。
「人間は、いい人ばっかりじゃないんでしょ?分ってますよお」
彼女は自信満々に胸を張った。海藻サラダセットに、半分以上心を奪われてはいたが。
で、しばらくして
「あ、先生あれ面白そうですね!まずあれに乗りましょう!!」
速魚が指さしたのは、水路を滑っていくウオーターマシンであった。
しっかり滝まである。
「ああああああ、やっぱり分ってないいい!」
「まあまあ、そんなに怒らなくても・・」
「誰のせいだ、誰の!!」
急に脱力感を覚えて、ぬ〜べ〜はテーブルにつっ伏した。
(この娘といると、とにかく疲れる・・・)
体もだが、精神面でのダメージが大きい。悪ガキ盛りの生徒達の中で、随分きたえられていると思っていたが、まだまだ修行が足りないようだ。
(いい娘なんだけどなあ)
「もういい。君に忠告しようとした俺が悪かった。とにかく、あれに乗るのだけはやめてくれ。頼むよ」
最後は完全に懇願口調になって、ぬ〜べ〜が眼だけを上げて速魚を見つめると、
「はーい」
今度も、元気そのものの返事が返ってきた。
「まあ、俺がついてれば、そうそうヘマはしないだろう・・・」
んが、そのセリフが終わる間もなく。
 
  
ガッシャン

「あ」
「・・・え?」
不吉な音と共に、速魚のあっけらかんとした声が彼の耳に届いた。 
  「すいませーん。コップ倒しちゃいましたあ」
「へ?」
見れば、コップからこぼれた水が速魚の足にっ!!
「うどわああああ!」

・・・その後のぬ〜べ〜の行動は、まさに神技だった。
椅子を蹴飛ばして速魚の腕を引っつかみ、人のいない店の裏手まで駆け抜けるまでに要した時間は、わずか5秒。店の者達には影しか見えなかっただろう。
もちろん公務員たるもの、無銭飲食なぞはしない。消費税込み、釣りがいらないよう1円玉3枚まできっちりそろえて、テーブルの上に置いてきたあたり、さすがである。
「どうして出ちゃったんですか?あのサラダおいしかったのにー」
ピチピチと尻尾を波打たせながら、ノホホンとそんなことをのたまっている人魚の横で。
ぜいぜいと息をつきながら、ぬ〜べ〜は滝の涙を流したのだった。
「お、お約束とはいえ・・どーしてコップなんか倒すんだ・・まだハンバーグ残ってたんだけどな・・こんな調子じゃとても身体が・・・あああ、やっぱり来るんじゃなかった・・」

先人いわく。
ーー後悔先に立たずーー


 
  

そしてさらに2時間後。
ぬ〜べ〜は予想通り、心身共に疲れ果てていた。
「乗り物疲れより、走り疲れの方が勝ってるのはどーゆうワケだ・・・?」
ベンチでへばっている彼の前方を、ジェットコースターが轟音をあげて通り過ぎていく。ちらっと、速魚が最前列に陣どっているのが見えた。
恨めしそうにつぶやいている彼の心境を、彼女は知っているのか、いないのか・・

まず最初に、噴水の側を通ってしまい、急に吹き上がった水がかかった。
次に、アイスクリームを持った子供がつまずいて、速魚のワンピースにピトッ。
挙げ句には、上を通るアトラクションから水が降ってきた。
で、きわめつけ。
成仏したがっていた霊が、彼に気づいてもらおうと水をぶっかけた。もちろん後で丁重に成仏していただいた。
できるだけ、水には近付かないようにしているはずなのに、水分の方から彼らのところにやってくるのだ。
(速魚が人魚だから水を呼ぶのか?いや、それなら干からびてミイラなんかになってないよな。じゃあ、なぜだ? いたずら好きな女神に気に入られたとか?うん、そうに違いない」
そうとでも思わなきゃやってられない。
ぬ〜べ〜はその度に、
「わあおう!!」
「ヒョエエエエエッ!?」
「だああああ!またかよ!」
などなどの叫び声を上げながら、人のいない場所へ向かって、ダッシュしなければならなかったのだ。
隠れられなかったときは、周囲が不自然に思う前に、
「いやあこの子、特撮ショーに出るんですよ。よく出来てるでしょ、このシッポ」
とか言いつつも、ズリズリ後退したりもしたのだ。
そんなこんなで気が抜けないというのに、
「先生、あれ乗りません?」
「あれも面白そうですね♪」
とくるのだから、疲れるのも当然だろう。 
  しかしその原因はまだまだ元気のようだ。フリーチケットを活用して、片っ端からめぼしいものに乗りまくっている。
ぬ〜べ〜も始めは一緒に付き合ってやっていたのだが、とっくに棄権して、今はほとんどベンチ行きだった。
「でも、まあ・・・」
再び、ジェットコースターが通過する。
彼の視線の先で、速魚は無邪気そのものの顔で笑っていた。
「いっか。あの子が楽しめるのなら」
へばっていたぬ〜べ〜の顔にも、微笑が浮かんだ。
速魚の笑顔は、人々を幸せにする。彼女の心からの笑顔に接した人間は、みな一様に優しげな表情になる。妖力でもなんでもなく、彼女のきれいな心が、人々を包むからだ。
速魚は本当に純粋なのだ。純粋すぎるほどに・・・。
だから本当は、その心を曇らせるかもしれないことはしたくない。その笑顔も通用しない怖い人間が、人の世の中にはいることを教えたくはないのだが――
「お待たせしましたあ」
彼女が戻ってきた。よほど興奮したらしく、頬を赤くさせている。
「楽しかったか?」
「はい!鵺野先生も乗ればよかったのに」
「遠慮しとく。それより他にはもうないのか?水関係以外なら、今度は俺も付き合うよ」
「そうですねえ・・・」
速魚はキョロキョロと辺りを見回した。
ここはテーマパークというだけあって、遊戯施設の他にも色々な娯楽が寄り集まっている。
その中で、速魚の目に止まったのは、魚の絵が壁一面に描かれた建物だった。

「先生、あれは何ですか?」 
  「ん?」
彼女の指し示した先を追って、ぬ〜べ〜もそちらを見る。
とたんに、彼の顔がサッと曇った。
「あれは・・・よしたほうがいい」
「どうしてですか?お魚さん達の絵が、とってもきれいですよ。何ていう建物なんですか?」
不思議そうに速魚はたずねた。あの建物に、並々ならぬ興味を抱いたようだ。
しかしぬ〜べ〜はそれには答えず、逆に聞いた。
「速魚は魚が好きか?」
「もちろん!海を泳ぐ魚は、みんな私のお友達ですもの」
即座に答えた速魚は、そのあとで慌てて付け加えた。
「あ、でも、陸の人達が生きていくために、あの子達を食べるのは仕方がないことだと思ってますよ。だから陸の人が困ってたら、私達は時々群れの場所を教えたりしてあげてたんです。知ってました?」
「ああ」
だがそれは人魚族全体のことであって、彼女は違うのだろう。
ぬ〜べ〜は言うべきか迷った。でもこのままでは、速魚も引きそうにない。答えるしかなかった。
「あれは水族館といって、色んな魚や、海の生物達が世界中から集められているんだ。君がよく知っている奴ばかりだよ・・・いや、南極のペンギンとか、知らないのもいるかな・・」
「行きましょう!」
案の定、すぐに速魚は感激の声を上げた。
「私の知らない友達が、こんな所にもいるなんて、ステキじゃないですか!ねえ、そう思いません?早く会いに行きましょう!・・・あっ」
しかし、ぬ〜べ〜の浮かない顔に気づいて、速魚の声も落胆した。
「・・そっか。水がある場所には、近付いちゃいけないんでしたよね」

その声が、あまりにも寂しげで。

ぬ〜べ〜は思わず、
「いいぜ」
と言ってしまっていた。 
  「濡れる心配はあまりないからな。行くこと自体は構わないんだ。ただ・・・」

(あそこへ行けば、速魚が傷つくかもしれない・・・)
彼女はおそらく、大海で自由に泳ぐ魚しか知らないだろう。食べるためでもなく、水槽で泳ぐだけの魚達を見て、平気でいてくれるのだろうか?
しかし、速魚のはしゃぐ顔を見ると、何も言えなくなってしまったのだ。
ぬ〜べ〜は黙って彼女を見つめると、その手を引いて水族館へ向かった。


 
  


まだ日も高く、休日だったこともあって、水族館も遊園地同様、大いに賑わっていた。
客達は思い思いの場所で、笑いさざめいている。
たった2人を除いては。

他の客達は、彼らを遠巻きにして通り過ぎていく。2人がこの、楽しむべき場所には似つかわしくない表情をしていたからだ。
彼らは大水槽の前から一歩も動かなかった。
大水槽は、この全国有数の水族館の中心であり、見物の目玉だ。
ポピュラーなものから、世界のごく狭い地域でしか見れないような、珍しいものまで、千匹単位はいようかという魚達が、大挙して泳いでいる。
水槽は円筒状になっていて、直径30メートル高さ10メートルはある巨大なものだった。これを吹抜けのような形で配置しているのだ。
だが、魚の数に比べれば、これでも狭いように思えた。「見せる」ために、密度を高くしているのだから、当然だ。
「・・・・・・」
速魚は黙りこくったまま、笑顔もない。 
  やはり、大きなショックを受けてしまったのだろうか。
ぬ〜べ〜は、一時の情に流されて、彼女を連れてきてしまった自分に、ひどく腹を立てながらも、ただ見守ることしかできなかった。
(あの時のことを思いだしてしまったのかもしれない)

ーーコンクリートに囲まれた、狭苦しい倉庫の一室。大人二人が腕を回せば届きそうなくらいに小さな、円筒型のガラスの水槽。
重しの付けられた尾。つり上げられた両手。
身動き一つできない、息をしているだけの世界。
童守港の倉庫に捕まっていたのを助けにいったとき、速魚はとてもつらそうだった。
ぬ〜べ〜の姿を認めると、鎖をちぎらんばかりに必死に、水面に身を乗り出して、嬉しそうに彼の名を呼んだ。そして解放されると、人魚にとって最上級のお礼の言葉らしい、『私の肉を食べて不老不死に♪』が飛び出したのだ。
広大な海の住人にとって、その自由を失うことは、死よりも耐えがたいものなのかもしれない。
ここにいる魚達も、規模などの差こそあれ、似た状況にある。もう、自力で彼らが外に出ることは、できないのだから。

来なければ良かったと後悔しても、もうどうしようもない。この上は彼女が元気になれるよう、自分が責任をもって何とかしなければ。
「もう帰ろう。これ以上いても・・・」
ぬ〜べ〜がそう言いかけると、やっと彼女はこちらを向いた。
「聞こえない」
「え?」
「聞こえないんです」
もう一度繰り返す。
「あの子達の声が・・・」
そうつぶやいた速魚の瞳には、人間に対する憎しみの色は全くなかったが、ぬ〜べ〜の心を締めつけるには十分だった。
  「すまない、速魚。やはり、君を連れてくるべきではなかったな。来る前に、ここがどういう場所か、俺がちゃんと説明すれば良かったのに。
・・・水族館の一番の目的は、人間を楽しませることにある。言葉も分らない魚達の気持は、二の次になってしまうんだ。これが自然の状態じゃないってことは、分っててもな。
・・・人は、水の中では暮らせない。だから、魚達の泳ぐ姿に、憧れを抱くのかもしれないな。こうやって、水の生き物を見て、人は心を休ませるんだ」
なかば言い訳のようになってしまったぬ〜べ〜の言葉を、速魚はじっと聞いていた。
そして、ニッコリ笑ったのだ。
「分ってますよ、鵺野先生。そんなに心配しなくても、大丈夫ですってば。陸の人には、この子達も必要なんでしょう?漁と同じように・・・だったら・・・」
「速魚?」
「さ、行きましょ!話はできないけど、他の子達にも会ってみたいんです」

それは、いつもの無邪気な笑顔だった。
人の悲しみも怒りも、なにもかもを包み込んでしまう笑顔ーー
「速魚・・・」
彼女はそうやって、人の全てを許し、共存をはかろうとしてきたのだ。
その心の下では、友達を奪われていく寂しさもあるだろうに・・・村にまで出て、友好関係を築こうとしたのだ。結局それは叶わないまま、妖怪という存在自体をも否定する、今の時代になってしまったけれど。
彼女はただのおバカじゃない。
ただのおバカに、これほどの優しさが持てるはずがない。
「君って子は・・・」
急にいとおしい思いに駆られて、ぬ〜べ〜は彼女の肩を抱きしめた。
「鵺野先生?」
速魚はきょとんとしている。
通りかかった若い男が、まるで恋人同士のような格好をしている2人を、うらやましそうに見ていったが、そんなことはどうでもいい。
(なんとかできないだろうか・・・)
魚を逃すことはできない。それは世の中のルールでは、窃盗にあたるものだ。
でもどうにかして、速魚の『魚達の声を聞きたい』という願いだけでも叶えてやりたくて、ぬ〜べ〜は必死で考えを巡らせた。
(何かないか、何か方法は・・・)
そして、この水族館の構造を思い浮かべたとき彼の頭に、突如天から降ってきた声のごとく、妙案が出現した。
  (そうだ、この方法なら・・!)
「速魚、魚達を逃すことは出来ないが・・・君と魚達を会話させることは、できるかもしれないぞ」
「ホントですか!?」
途端に速魚の顔が、パッと輝いた。
「水槽の中に入れればいいんだろう?俺に考えがある。可能性は低いが、もしかしたら・・・」
「キャーッ、やっぱり鵺野先生はいい人ですううう!!!」
速魚はうれしさのあまり、そこら中をピョンピョン飛びはねた。その後の「もしかしたら」という言葉は、聞かなかったらしい。
「いや、だからもしかして、で、絶対じゃ・・」
ぬ〜べ〜が念を押そうとした時には、
「んじゃ、早速元に戻りますね♪」
と、足を消し始めてしまっていた。
「うわああああっ、ちょっと待った!」
「はい?」
「今はマズイ。夜中にならないとダメだ」
「あら、そうなんですか?起きていられるかしら?」
「・・・あのなあ」
全く、立ち直りが早いというか、切り替えが早いというか。
『泣いたカラスがもう笑った』の、速魚は差が激しいらしい。それが、彼女の長所でもあるのだけれど。
(さっきまでの、哀愁満載の雰囲気は、一体何だったんだ?)
ああ、周りの視線が痛い。

速魚に明るさが戻ったことを嬉しく思いながらも、ぬ〜べ〜は「人生とは、性格とは何ぞや」という、不毛な命題に思考を突入させたのであった・・・・



そして。
曜日が変って、しばらくした時刻。
水族館の真上に、正体不明の物体が出現した。
  3階建てのビルほどもあろうかという体長と、オタマジャクシに前足を付けたような姿を持つそれは、水族館の中央に開いていた広場に、音もなく降下する。
と、巨大な影の下に、さらに2つの人影が現れた。
「すっごいですね、これが鵺野先生のペットだなんて」
地面に降り立った速魚は、改めて満月の光の中で、妖獣・くだ狐を見あげた。
鬼の手模様を持つその巨大な身体には、小さな子供には精神上よろしくないレベルの不気味さがある。
「俺もまさか、こんなになるとは思ってなかったんだがなー。ま、エサ代はかからんし、こうして乗り物にもなるし、何かって時には役に立つ奴だよ。ただ、あんまり外に出しておくと、すぐ増殖するのが厄介だが・・・ご苦労さま」
ぬ〜べ〜はくだ狐を空のペンに収めると、広場と建物とを隔てているドアに近寄った。
「・・・やはりな」
その顔に会心の笑みが浮かぶ。

採光と、広い館内を歩く客達の休憩所を兼ねて作られた広場。ここの水族館は、この広場を中心にして、ドーナツ状に展開する構造になっているのだ。
出入り口付近や、外に面する窓などには、貴重な魚の盗難防止用に、厳重な防犯装置が施されているだろう。が、この中央広場は建物が四方を囲んでいるため、外からは侵入できないのである。
今のぬ〜べ〜のように、飛行すれば可能だが、そこまでして来ようとする者はまずいない。
だから、この広場の警備は手薄かもしれないと、ぬ〜べ〜は踏んでいたのだ。
案の定、ドアには何もなかった。単なる防音用
らしい。
(本当は、これも不法侵入罪だが・・・)
バレれば、教師生命の終わりくらいではすまない。だが、もう後戻りをする気はなかった。

中をのぞき込むと、外の月夜と同じ青白い世界が広がっていた。
昼と違い通路の明かりは消してあるが、水槽には所々に照明が灯っているようだ。
これで、歩きの心配はなくなった。館内を探せば、水槽上部の入口も見付けられる。
あとは、速魚を中に入れれば、魚達と話もできるはずだ。
しかし。
「げっ!」
あるものを見つけて、ぬ〜べ〜はうめき声をあげた。
昼には気づかなかった、点在する監視カメラ。
朝になれば、水槽内に異常がなかったか、出勤した職員がチェックするのだろう。水槽内が明るいのはそのためらしい。
そこに人魚なんかが映っていれば、童守港の時のように、大騒ぎになるのは間違いなかった。
どうやら目的達成への道は、まだ安泰とはいえないようである。
「速魚、俺はちょっと警備室まで行ってくるから、絶対にここを動くんじゃないぞ」
後を付いて来ていた速魚に、ぬ〜べ〜が言いつけると、
「はーい」
と、しっかりした返事が返ってきた。
しかし、昼間ではその後、見事に騒動が起こったのだ。
(不安だ・・・限りなく不安だ・・)
でも連れ歩いて、余計なものにひっかかりでもしたら、それこそシャレにならないし・・
「いいな、絶対だぞ!」
「はいはい」
仕方なく、最大の不安材料を残して、ぬ〜べ〜は中へと一歩を踏み出したのだった。
 


水槽近くにあるカメラの視界に入らないように警戒しながら、ぬ〜べ〜はようやく警備室までたどり着いた。
ソロソロと中に入る。
一応普通の鍵はかかっていたが、物質透過能力を持つ鬼の手の前では無力だ。
室内にはモニターなどの機器類が所せましと設置されていたが、やはり無人だった。その代り、画面にはカメラからの映像がいくつも映し出されている。ふと見ると、その下ではビデオデッキも回っていた。他にも、色々とセキュリティシステムが作動しているはずだ。
「・・・よし」
ぬ〜べ〜はポケットから数枚の護符を取り出すと、霊力をこめて投げ放った。彼の意志にしたがい、護符は機器類を取り囲む。
するとどうしたことか。それまで正常に作動していたモニター画面が大きく歪み、次の瞬間消えてしまったのである。
この護符、本来は磁力結界を発生させて、低級霊を閉じ込めるためのものだ。しかし、応用させればこうやって、「電気」という磁気の流れを変えることにも利用できるのである。
こういうこともあろうかと、忍ばせて持ってきていたものが、役に立った。
これで防犯設備は、結界を消すまで使用不能になったはずだ。そして用が終わったら護符を回収すれば、電気の流れも元通り。痕跡も残らない。
完全犯罪の成立である。
とはいえその間は、他の水槽に異常があっても反応しないのだから、長くやっておくわけにはいかないが。
「さて、と、これで万事OKだな。あとは、速魚を早く連れてかないと・・・」
ちゃんと言いつけ通り待っててくれるといいが、あの速魚のことだ。昼間あれだけ中に入りたがっていたし、待ちきれなくなって、勝手に動き回るかもしれない。
もし、非常ボタンでもポチッと押されたら、そこでジ・エンドなのだ。
ぬ〜べ〜は急いで踵を返した。

が。時はすでに遅かったようだ。
広場まで戻ってきた時には、速魚の姿は消えた後だった。
「・・・・あのおバカ」
(たまには人の言うことを聞けよ・・・)
ぬ〜べ〜は一つ大きなため息を付くと、彼女を見つけるべく、再び歩きはじめた。
ビデオテープが、磁力でおシャカになっていることを祈りながら。
 


ゆらゆらとたゆとう者。活発に動き回る者。

見るもののいない、小さな器の中にいる生物達の視線は、彼一点に集中しているようで、何だかいたたまれない気分にさせる。
巡回路に沿って立ち並ぶ水槽の群の中を、ぬ〜べ〜は足早に進んでいった。
彼女の居場所の見当はついていた。
「速魚?」
大水槽に続く通路まで来たぬ〜べ〜は、試しに声をかけてみた。
雑多な音のない館内には、彼の声は驚くほどよく響く。
しかし、ポンプの微かな機械音が通路を満たしているだけで、応答はなかった。
自分で入口を見つけ出して、中に入っているのだろうか?

ぬ〜べ〜はゆっくりと、水槽に近付き。
そして。
「・・・・・」
目の前の出来事に、息をのんだ。


ーーそこには、幽玄の世界があったーー


作りだしているのは、無数の魚達と、一人の人魚。
数センチの小魚から巨大なサメにいたるまで、本来なら食いつ食われるしている彼らが、ただ一ヶ所に集まっている光景は、見る者を圧倒させる迫力があった。
人工の照明と物質に閉じ込められていながら、そこには自然空間が生じているようにさえ思える。

そんな清浄な「青の海」の中心で、速魚は魚達の銀色に包まれていた。
薄紅色のウロコは、陸にいる時とは比較にならない鮮やかさを放つ。
軽いウエーブのかかった黒髪は、ゆるやかに広がっていた。
そして、何よりも彼の視線を奪ったのは、その穏やかな微笑みだった。
  日頃の速魚の笑顔を太陽の輝きだとすれば、今の速魚はさしずめ、月の静かな微笑みとでもいおうか。
気高く、美しい。
(泣いているのか?)
目の錯覚かもしれない。水中なのに、判るわけがない。
しかしぬ〜べ〜には、速魚の涙が見えた気がした。
それは悲しみの涙ではなく、優しい涙だ・・・

海を護り、海と共に生きる人魚。海神も愛する妖精が、そこにいた。



何を思ったか。
ぬ〜べ〜は鬼の手を解放し、水槽にふれた。
紫の電光を散らしつつ、力が厚いガラスを駆け抜けていく。
そして、水槽全体に行き渡ったとき。
「これは!?」
異変に気づいた速魚が、驚きの声を上げた。
突如、速魚達を取り囲んでいたガラスが消え失せ、眼前に広々とした海が出現したのだ。
降り注ぐ日光に水面が反射して、海藻が生い茂る岩場に網の紋様を描き、極彩色のイソギンチャク達が、砂の細かな海底を飾っている・・・さまざまな命の営みにあふれた海。
速魚がいつも泳いでいる海と同じものが。
「鵺野先生!?」
速魚はぬ〜べ〜の姿を探し、彼がその海の中に立っているのを見つけて、もっと驚いた。
「あの、大丈夫なんですか?息は・・・」
だが泳いでいった彼女は、もうちょっとという所で固いものにゴン、とぶつかってしまった。
「???」
ぬ〜べ〜は笑いながら、鬼の手で速魚にふれた。
「これは幻影さ。君や魚達の願いを映しているだけの、な。本物の海じゃない。だから水槽の仕切りはなくなっていないし、その外へは進めないんだ」
以前、ハツカネズミが学校に大量発生したとき、退散させるために洪水の幻を見せたのと同じ、これも鬼の手の能力の一つである。
「もっと何とかしてやりたいが、俺にはこれが精いっぱいだ。でも・・・少しは彼らも満足してくれたかな?」
速魚は振り返った。
さっきまで彼女の周りに集まって、口々に語りかけていた彼らは、今は思い思いに散らばっていた。昼間のノンビリした泳ぎとは違い、とても楽しそうだ。
懐かしい、帰りたいと思っている風景に、また巡り合えた喜びを、速魚にダイレクトに伝えてくる。
「はい!みんな喜んでますよ。ホントにありがとうございます。先生にはお世話になってばかりで・・・お礼に私の肉を・・・」
「それはいいって、前から言ってるだろ。それより、君ももっと遊んだらどうだ?まだ時間はある。ほら、行ってこいよ」

いつかは消えるのが幻。この海も、自分が居なくなればまた元の水槽に戻る。
もう二度とは出来ない短い時間を、せめて楽しんで欲しい・・・
ぬ〜べ〜は、速魚を鬼の手で奥に押しやったのだった。
 


そして夜が明ける前に、2人は水族館を去った。
「あの子達、世話係の人達にはとても親切にしてもらってるんですって。みんな、あの子達が好きな人で良かった♪」
ぬ〜べ〜はくだ狐に指示を出しながら、速魚の話に耳をかたむけていた。はずむように明るい声が、後ろから途切れることなく続く。
「そうか。昨日一日つぶした甲斐があったよ。しかし、随分遅くなったな・・今日の授業でミスらなきゃいいが・・・」
ちょっとでも間違えると、鬼の首でも取ったかのように、はやしたてる生徒達の餌食にだけはなりたくない。自分にだって教師のプライドってものがある。
「でもね・・・一番楽しかったのは、鵺野先生と・・・」
「え?何だ?」
くだ狐の起こす強風にかき消されたのか、速魚の声は彼の元まで届かなかったようだ。
「いいえ、何でもないんです。・・・あ、童守港が見えてきましたよ」
速魚が指さす先には、朝の早い漁師達が活動し始めている港があった。
人目を避けて埠頭に降り立った2人の前に、朝日が姿をあらわす。
「きれいですねえ・・・私、これが大好きなんですよ」
「ああ、そうだな。太陽は全ての闇を洗い流し、照らしてくれる。海と同じ万物の源だ。・・・さ、誰かに見られないうちに帰りなさい。元気でな」
海にとびこんで人魚に戻った速魚は、しかしすぐには行かず、じっとぬ〜べ〜を見つめた。
「本当にありがとうございました。・・・また、遊びに行ってもいいですか?」
「もちろんだ」
その答えを聞いてから、速魚はニッコリ笑うと、海中に消えたのだった。
「速魚・・・か。いい子だよな。疲れるけど」
目の前の朝日のような、色々な表情を見せてくれる。出会った人々の心に、一陣の温かい風を残していく娘。
彼の恋人とはまた違った輝きをもった子だ。
「今度はいつ来るかな」
ぬ〜べ〜は肌寒い空気に首をすくめると、港を後にした。


しかして。
その再会の時は、とてつもなく早くやってきた。
翌日だったのである。
「鵺野せんせえ〜。遊びにきましたあ」
彼女が再び現れたのは。
「速魚!?どうして・・・」
「え〜、遊びに来てもいいって言ったじゃないですか」
「確かに言ったが・・・こんなに早く来ることないだろ・・・」
「今度は動物園のチケットを貰ったんですよ〜。ね、また一緒にお願いします♪さあ早く!」
「ちょっと待てったら!まだ授業が・・・」
「いいからいいから」
「良くな〜い!!」
慌てふためくぬ〜べ〜の腕を、速魚は最高の笑顔を浮かべて掴んだのだった。


                                        END
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